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山中

戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、小田原を本拠地としていた

北条氏の出城として築城された山城が、山中城です。

 

■西方防御の要としての役割 :伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接していました。

■豊臣秀吉の小田原攻めに備え:天正年間、全国統一を目指す豊臣秀吉が小田原攻めに着手!

               山中城は、韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として

               重要視され、堀や出丸などの大改修が行われました。

■いよいよ山中城合戦    :天正18年(1590)3月29日、6万7千人の豊臣軍の総攻撃を受け、

               4千の北条勢は必死に防戦したが、あえなく落城。

■以後、廃城としてひっそり眠っていましたが、現代になり地元民の熱意で調査・計測が行われ、

 国指定の史跡として認定を受けました。その後、三島市により発掘・整備が行われ、現在に至ります。

★三島市の山中城跡に関するHP

 http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kanko_content021054.html

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山城を体感!

岱崎出丸、三の丸、西の丸、北の丸、本丸、またそれぞれの曲輪を結ぶ虎口や土橋など、歩くだけで山城を思う存分体感できます。

整備され、歩き易くなってはいますが、虎口を登り切るころには、息切れ必至!

​全体をゆっくり見て回ると、2時間ほど要します。

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山城の命は、堀と土塁!

北条氏特有の堀は、「障子堀」「畝堀」と呼ばれています。

ここに落ちたら、滑る滑るは関東ロームの赤土!蟻地獄のように這い上がれない!

現在は、遺構保護のために、盛り土のうえに芝が張られています。許可なく、堀の中に降りたり、土塁に登ったりしないよう、マナーを守って見学しましょう。

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三ノ丸にある宗閑寺(そうかんじ)

豊臣方で一番槍を果たした渡辺勘兵衛の『渡辺水庵覚書』は、山中城の戦いの激しさを

物語るとともに、城の防御ラインを突破するために多数の戦死者があったことを示しています。山中城守備軍副将間宮康俊 (まみややすとし)の娘が亡き父や、この戦で命を落とした人々を弔うために、創建しました。敵でありこの合戦で戦死した一柳伊豆守直末(ひとつやなぎいずのかみなおすえ) の墓もあります。

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自然も満喫!

見晴らしの良い箱根西麓に築城された山中城からは、現在でも、市街地や駿河湾、

晴れている日は富士山までをも見渡すことができ、絶景ポイントでもあります。

また自然豊かで、四季折々の植物や昆虫などを見て、楽しむこともできます。

晴れた日には、ピクニックをしている親子連れもいます。

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